座禅をやって、枯山水の意識高い系写真を投稿をすると、時々聞かれるのが「悟れるんですか?」というもの。
聞いてくる奴はだいたい半笑いです。ファック。
とはいえ実は、僕も寺に通い出した時、エラい和尚さんに聞きました。
ちょこちょこサボる僕みたいなアレではなく、寺に入ってウン十年、多分毎日座禅していた人に。
結論から言えば「悟れるわけねえやろ。座禅なんぞただ座っとるだけや。」です。
僕は、元々宗教学が割と好きで、
学生の頃から三大宗教はもちろん、ユダヤ教やゾロアスター教とかまで原典から読み、
家にエホバの証人の爺さんが来ると家に上げて旧約聖書の解釈について質問したりするアレな子でした。
その中でも、空海とか道元みたいな禅宗の坊さんの言葉がけっこう好きだったので、
「座学だけじゃなく実践じゃ」ということで、
禅寺にイロイロ行って、自分に合うとこにゆるく通い出した、と。
ほんで、通い出したころ、エラい和尚さんに「悟れるんすかね」って聞いてみたと。
多分半笑いで。
そしたら返ってきたのが
「悟れんよ?こんなんただ座っとるだけや。
君、若いんやからホドホドにして、いっぱい遊びなさい(笑)」
的な言葉でした。
これ聞いて「あ、俺続けよう」と。
「これが悟りか」と思ったよね。
ここでグチャグチャ御託言われたら、多分辞めてます(笑)
正しい正しくない以前に、
自分がウン十年やってきたことを「意味ねえ」とサックリいけるのが、
最高にロックだかっけえ、と思いました(笑)
後から考えてみると、禅仏教における「色即是空」「只管打坐」「不妄」とかが結局、
こういうことなのか、と。
「悟るため」とかの目的性が、既に雑念。スケベ心。
「ただ坐るために坐る。ただ坐りたいから坐る」のが座禅。
調身・調息・調心を以て、”今”のみに集中するのが座禅。
思うに、現代のヒトは、何をするにしても、目的や効果を求めすぎるワケです。
もちろんそれはとても大事なんですけど、
時にそれは、自分の感性に従わない言い訳になっていたり、
逆に中途半端な目的の元にグダグダな行動をしていたり、ということになります。
だからこそ、完全に無目的に「ただ坐る、ただ生きる」時間をつくる。これが座禅。
「無目的の時間をつくる」という目的がある時点で、ある意味矛盾してるんですけどね(笑)
人間の活動や言語なんてのはどこまでいっても不完全ですわな。
まあそんな感じです。
長々と語ってる時点でダサい気もしますが(笑)
不完全な人間が、不完全な概念に関して、不完全な言語でなんとなく書いてみました。
日々是好日。
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それでは明日も、よい人生とよい旅を。